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Đề Thi Tiếng Nhật

Đề Thi Thử JLPT N1 Đề Thi Số /3

問題8 次の(1)から(4)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
(1)
文化というのは目に見えない形のないものだ。だから、日本の文化を説明しろと言われても、言葉だけで伝えることは容易ではない。博物館に行って古い道具や美術品を眺めていても、文化の本質を理解したことにはならない。では、文化はどうしたら直接肌で感じられるか。その一つが日々の「食事」である。

食卓で家族が何をどのように食べているかを見ることで、文化の深い部分を実感することができる。なぜなら、人々の具体的な生活習慣の積み重ねこそが文化だからだ。旬の食材を選び、調理し、共に味わい、片付ける。そうした人々の無数の営み(いとなみ)の蓄積として文化は存在する。食事は、その営みの蓄積を具体的に体感させてくれる場なのだ。
45. 文化について、筆者はどのように考えているか。
(2)
社会問題は、しばしば「巨大なタペストリー(つづれ織り)」にたとえられます。タペストリーは、無数の色の糸が複雑に絡み合って一枚の絵を描き出しており、一本の糸だけを抜き出して見ても、その全体像を捉えることはできません。実は「社会問題」もこのタペストリーによく似ていて、 私たちに貧困や孤立といった多様な事象を見せますが、その事象を生み出している、問題の「根本的な構造」を捉えることは容易ではありません。私たち社会学者は、社会問題という複雑なタペストリーを、表面に表れた個々の事象を手がかりにして紐解き(ひもとき)、その背後に隠された真の原因をあぶり出さなければならないのです。
46. 筆者によると、社会学者は社会問題にどう向き合うべきか。
(3)
農業補助金とは、天候不良や価格の下落によって農家が大きな損害を受けた際に、国が一定の資金を援助する制度である。農作物の生産には常に自然災害などの不確実な要素が伴うため、この制度によって農家が最低限の収入を確保できるようになっている。こうした制度がなければ、農家はリスクの高い農業の継続に躊躇(ちゅうちょ)してしまい、結果的に国の食糧生産基盤が崩壊してしまう。農業補助金には、国民全体の食生活の安定を保障する目的があるのだ。
47. 筆者によると、農業補助金制度による農家の利点は何か。

他者の心を真に理解しようとする人は、自分の価値観が絶対ではないと痛感しているがゆえに、ふだんは見過ごしてしまう相手の些細な言葉やしぐさにまで細心の注意を払います。そして、自分が「他人も自分と同じように感じるだろう」と思い込んでいた部分を見つけ出し、相手も本当に同じように受け取っているのだろうかと立ち止まって考えるのです。

このような仕方で相手の感情に寄り添い、自分の思い込みを問い直す経験を重ねると、一見すると平穏(へいおん)に見える他者の内面にも、じつは複雑な葛藤(かっとう)が渦巻いている、と気づけるようになります。
48. 筆者の考えに合うのはどれか。
問題 9 次の 1 から 3 の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4 から一つ選びなさい。
(1)
以下は、料理の世界におけるプロフェッショナルについて書かれた文章である。

料理人と呼ばれる立場にある者は、常に技術と味覚を高めていく努力を怠ってはならないのだが、以前なら、名店のレシピ本を読むとか、より高い技術を持つ先輩に訊ねるとか、あるいは海外の珍しい調理法を真似るなどすれば、ある程度は事足りたように思う。いわゆる「借り物」の味であっても、それなりに客を満足させることができたのだ。

しかし、これだけレシピの公開が進むと、その程度の「作り方」は、得ようとすれば誰もが得ることができる。誰もが作れる料理を出しても意味はない。客の心を動かすきっかけにはなり得ない。つまり、もはや「借り物」の味は通用しないということだ。誰もが知り得る製法を、より深めたものでなければ「プロの料理」にはならないのである。

そうした独自の味を身につけるためには、自分自身が産地に足を運んで食材の育つ環境を見聞したとか、生産者と直接言葉を交わしたとかして、獲得した感覚でなければ、客の感動は呼びにくくなるのではなかろうか。そういう料理が、これからは求められるのではないかと私は思うのだ。(中略)

つまり、料理にはなんらかの哲学の裏付けが必要になる、作り手の顔を感じさせることが重要になるということである。

言葉を変えれば、「レシピを知っている」だけではプロにはならないということだ。食材の命を「わかって」いなければならないということである。「知った」技術を、それまでの自身の経験なども付け加えながら自分のなかで自分の味として置き換え、「わかる」に変換させなければ、料理人としての高みに達したことにはならないのだ。
49. 「借り物」の味について、筆者はどのように述べているか。
50. 筆者によると、これからの料理人に求められることは何か。
(2)
人間は過去の出来事をありのままの形で記憶しておくということはできません。思い出すとき、さまざまな映像や匂い、周囲の温度や感情が入り混じって、決して時系列に沿ってなどいないでしょうが、頭のなかに何かの風景を描いてはいるのです。
(中略)

それを誰かに伝えたり、記録として残したりしたいときは、私たちは、それをカメラのファインダーや四角い写真の枠に沿って切り取るように、なんとか見栄え良く整えて「保存」していきます。そうでなければ、ほかの誰かは、あなたの体験を視覚的に共有することができないからです。

そうすることで、思い出が鮮明な形として残されたり、自分でも気づかなかったような美しい構図が発見できることもあるでしょう。それこそが、写真を撮ることの恵みです。だから、ときどき私たちは、そうして記録されたものが、最初から自分の体験のすべてであったかのように勘違いをしてしまいます。でも、当然のことながら、実際の体験が最初から四角く切り取られていたわけではありません。逆に、レンズを通したり構図を決めたりすることで、渾然一体としていた匂いや温度や感情や周囲の雑音の「かたまり」のような豊かさが排除され、枠に収められ、固定化されてしまうことも当然あります。これはある意味、とても惜しいことです。

なぜなら、そういう視覚化・枠組み化されていない「かたまり」のような状態も、立派な「体験」だからです。そして、心を深く揺さぶるような感動や、生きているという生々しい実感というのは、こうした「かたまり」の体験が、感覚の奥で化学反応のように作用し、自分でも意識しないまま、写真の「枠の外」からふっと湧き上がってくるものなのです。
51. 筆者によると、写真を撮ることの利点は何か。
52. とても惜しいことですとあるが、なぜか。
(3)
舞台作りは、参加するすべての表現者が試行錯誤しながら、ひとつの作品を創り上げていく作業である。しかし実際には、アイデアや演技プランが採用されない者も大勢いる。こうした状況下で、その場では演出家の指示に納得しているように見えても、周囲の接し方次第では不満が溜まっていくことになるだろう。

「それならば、私が自分の頭で考えて演じる必要はないじゃないですか」

当然ながら、この先、この役者からは創造的でポジティブな提案は得られないであろう。

演出家や脚本家がすべての権限を握り始めたときは、特に注意が必要だ。作品の方向性を決めた人間がその舞台に責任を持つことは当然であるが、それと同時に劇団員のモチベーションへの責任も持つことになると心得なければならない。そのために、本筋でないことは他者に譲るクセをつけてみてはいかがだろうか。

では何が本筋で、何が本筋でないのか。それを客観的に判断する基準は、「作品のテーマに関わるか」「単なる好みの問題か」という点にある。つまり、衣装の細かい色合いや小道具の配置といった好みに関しては、演出家の個人的な一存で切り捨てるのではなく、役者やスタッフの意見を積極的に受け入れるべきであると考える。そのことで座員のひとりひとりが自分の存在意義を感じ、前向きな表現を舞台上で見せてくれるようになるだろう。
53. 自分のアイデアが採用されない役者について、筆者はどのように述べているか。
54. モチベーションへの責任も持つとあるが、どういうことか。
(4)
動物行動学において、初めて見る食べ物に対する動物の反応を調べる実験があります。雑食性の動物は、最初は見慣れないエサでも平気で少しだけかじってみます。ところが、それを食べて気分が悪くなる経験が積み重なってくると、同じにおいがするエサには二度と近づかなくなります。苦しい思いをした経験があるからです。

これは重要なことです。なぜなら、コアラのような特定の植物だけを食べる動物では異なる結果が出るからです。彼らは初めからユーカリ以外の葉には見向きもしません。野生の世界では、未知の植物を口にしたら毒に当たり命を落とす可能性が高い。だから毒を避けるように、生まれたときから「特定の葉以外は食べない」ことが本能として組み込まれているのです。

一方、ヒトなどの場合は、自ら多様なものを口にするようになることで、経験を通じて、つまり手痛い失敗を通じて、「危険な食べ物」を学習するようになります。(中略)

見方を変えると、特定の葉しか食べない動物は、本能で決まってしまっている食の範囲内でしか生きられません。でも、ヒトは後天的に(注1)学ぶために高い柔軟性を備えています。さらに一歩進めば、「苦いけれど、薬になるから食べよう」などと判断することもできますから、生存の範囲が大きく広がります。生まれた直後の「安全な食べ物を見分ける能力」は、特定の植物を食べる動物たちのほうが高いかもしれませんが、ヒトの「初期設定のゆるさ」は、のちに「環境への高い適応力」へと化ける、いわば先行投資。その恩恵は絶大で、十分に元がとれる(注2)のです。

(注1) 後天的に:ここでは、生まれたあとで
(注2) 元がとれる:ここでは、利益が得られる
55. 初めからユーカリ以外の葉には見向きもしませんとあるが、なぜか。
56. ヒトの能力について、筆者はどのように述べているか。
問題 10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から 一つ選びなさい。
以下は、ある料理研究家が書いた文章である。

伝統的な和食は、本来、肩肘張らずに楽しむものだ。しかし、手軽に満腹感を得られるファストフードと違って、和食の奥深さを味わうには特別な作法や味覚の知識がいると①思っている人は多い。私はそうした考え方は大きな誤解だと思っている。

しかし、そう考える人の気持ちがわからないではない。なぜなら、現代の日本では子どもの頃から本物の味に親しむ環境が整っていないからだ。高級な和食店では子どもは騒がしくて歓迎されない存在だとされている。来店する資格があるのは味のわかる大人だけだと思われたら、敷居が高く(注1)なるのは仕方がない。しかし、その逆に、子どもの頃から本物の出汁(注2)の香りや味に何度も触れ、それがなじみのあるものになっていれば、伝統食との距離はもっと近づくだろう。

では、子どもたちに豊かな味覚を持ってもらうにはどうすればいいのだろうか。(中略)

私がよくやるのは②「食材当てゲーム」だ。もともとは京都の老舗料亭で料理人が修業の一環としてやっているのを見て面白いと思い、自分の料理教室でも実践している。

「食材当てゲーム」のルールは簡単だ。子どもたちに目隠しをさせて、数種類の野菜や出汁を一口ずつ食べさせる。すると、彼らは視覚に頼れない分、一生懸命に舌に集中して、何の食材かを探り当てようとする。

正解を見つけ出せなくてもかまわない。どんな感想を言ってもいい。言葉が思い浮かばなければ、「甘い」「苦い」という単純なことでもいい。「味わった」ものをそのまま伝えてもらうだけでいいのだ。とにかく、料理に「舌で向き合う」きっかけを作ることが目的である。

大人はともすれば料理を頭で理解しようとする。この店は有名な三つ星料理人が作っているからすばらしい、レビューサイトで高評価だから美味しい、というように、事前情報と目の前の料理を一致させるだけで満足してしまう。しかし、そんな食べ方が果たして本当に料理を「味わった」と言えるだろうか。

子どもたちは予備知識を持たずに料理を口に運ぶ。そのときに「美味しい」と言わなくてもかまわない。一生懸命に「味わう」だけでいいのだ。一つの食材にじっくり向き合ったという体験だけで、その食事の価値は十分にある。

料理のすばらしいところは「本物」をその舌で感じられることだ。子どもたちは化学調味料の味と本物の出汁を比べて「何かが違う」と気づくかもしれない。それだけでも立派な「発見」だ。本物の出汁と、人工的に整えられた味は違うのだということがわかるだけでも、本物を口にした甲斐がある。

私は、食育とは、自分の味覚で感じ、自分の頭で考えられるよう、感性を鍛えることだと思っている。マニュアル通りに食べるのだけが食育ではないはずだ。そして、毎日の食卓は、うまく使えば、感性を鍛えるすばらしい学校になりうる場所だ。なぜなら、食には「答えがたくさんある」ことを教えるのに最適な場だからだ。

一人ひとり好みの「味」も違えば、その料理から感じる「記憶」も違う。正解の味は決して一つではないのだ。

(注1) 敷居が高い: ここでは、高級だったりして、その店に入りにくい、近づきにくいという意味。
(注2) 出汁(だし): ここでは、昆布や魚などを煮て作る、うまみのある汁のこと。
57. ①思っている人は多いとあるが、そういう人たちの気持ちについて筆者はどのように考えているか。
58. 筆者が、子どもたちに②「食材当てゲーム」をさせるのは何のためか。
59. 筆者によると、食卓は子どもたちの教育にどのように役立つか。
60. 筆者がこの文章で最も言いたいことは何か。
問題11 次のAとBの文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
A
人は他人の言動に怒りやイライラを感じたりすると、感情的になって強い言葉をぶつけたりして、本来の冷静な話し合いができなくなることがある。そういうときは、「相手を言い負かしてやろう」といった攻撃的な思考をしないようにする必要がある。
そのためには、心の中で視点を変える言葉を自分に投げかけることが効果的だ。「相手にも何か事情があるのだろう」と言い聞かせたり、「自分が本当に解決したいことは何か」を問い直したりする。人は意識を向ける対象によって、物事の受け止め方が変わるため、相手への敵意が薄れてきて怒りの感情が和らいでいく。つまり、怒りの感情はコントロールが可能なのだ。感情が落ち着けば、言葉も穏やかになり本来の良好な関係が築けるはずだ。

B
人は怒りの感情に陥ると、反射的に体に力が入り、声が大きくなってしまう。このように、人間の身体は、心の激しい動きに敏感に反応している。こうした身体と心の関係性をうまく活用すると、身体の動きを意識的に変えることで、心の動きまでもコントロールすることができるようになる。

たとえば、怒りでどうしようもない状態になったときは、意識的にその場から歩き去ってみる。極度に興奮して血圧が上がったとしたら、ゆっくりと冷たい水を一杯飲んでみる。

簡単に言えば、緊張した身体の状態を緩める方向に身体を動かせばよいのである。場所を変えれば怒りの対象から意識が逸れ、水を飲めば落ち着いた状態になりやすい。

そもそも、怒りというものは、自律神経を通して身体の反応へと現れてくるものだが、こうした作用を逆に利用することで、身体の側から感情に働きかけることができるのである。
60. 怒りやイライラを感じたとき、AとBはどうすればよいと述べているか。
61. AとBで共通して述べられていることは何か。
問題12 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
以下は、工場での大量生産品と職人の手仕事による工芸品について書かれた文章である。

職人の手によるものづくり、その作品というのは、ただ完成した美しい形を提示するだけのものではありません。必ずそこに至るまでのプロセスがあります。扱いにくい素材と向き合って思い悩んだり、「今日の自分の技術でどこまでできるか」と気後れしてしまって作業の手が止まることだってあります。でも、「これではいけない」と自分の心と戦ったり、妥協点を見出したりして最終的に一つの作品を生み出す。もちろん完成品そのものの美しさも大切なのですが、そこに至るまでには必ずそうした過程があります。

手仕事の魅力というのは、素材との対話はもちろんですが、作り手自身との戦いによっても生まれ、深まっていくものなのです。

それに、人間は疲れも感じるし、集中力も永遠には続きません。焼き色にムラができたり、形がわずかに歪んだりすることだってあります。

しかし、そんな不完全な一人の人間が迷いや苦しさを乗り越えて、使い手が思わず触れたくなるような、温かみのある器を作り出す。それこそが職人の手仕事の醍醐味だと思うのです。
(中略)

よく言われることですが、工場で均一に製品を作る機械に悩みやプレッシャーはありません。いくら機械で作られた製品の形が完璧でも、先ほど述べたような人間的なプロセスを乗り越えてきているわけではない。

精巧な機械による生産品では、設計者のデザイン能力や、いかに効率よく作るかというシステム構築上の工夫が評価の対象になります。ただそれは、職人の手仕事の強みとは別の軸にあるものだと思うのです。

その相容れない(注1)まったく別物の価値を比べようとするのが、現代の市場です。その結果、機械生産のほうが安価で使い勝手が良かったとしても、手仕事の器が魅力や意味を失うわけではないでしょう。

もちろん、機械の完璧な製品を見て、手作りのわずかな歪みを「欠点」だと感じる消費者がいる気持ちもわかります。いままで安くて質の良い工業製品に囲まれて生活してきた。そういう中で、高価で手入れの必要な手仕事の器を目の当たりにしたら、現代の合理的な生活に慣れた人間である以上、不便さを感じるのも当然だと思うのです。

いままで自分が美しいと感じていたものは何だったのだ、と。

ただ実は、職人の工芸品と工業的な量産品というのは優劣を競うものではなくて、それぞれが固有の良さを持っているものだと思うのです。

芸術作品としての工芸品、職人が作る日常の器、そして工場での大量生産品。大きく分ければこの三つになると思いますが、これらはそれぞれに独立した役割と魅力があって、お互いを阻害する(注2)ものではありません。そこを分けて考えることが大事なのではないでしょうか。

この三つの器を実際の生活で徹底的に使いこなしたうえで、安価で均一な大量生産品が一番素晴らしいと思えば、手仕事の器に魅力を感じなくなっても仕方がないとは思います。でもきちんと比較もせずに、なんとなく「安いから」「手入れが楽だから」という表面的な理由だけで、職人の手仕事による器の魅力が時代遅れだと思うのは非常にもったいない。

(注1)相容れない:ここでは、性質や基準が異なる
(注2)阻害する:妨げること
62. 職人の手仕事の魅力について、筆者はどのように考えているか。
63. 機械による生産品について、筆者はどのように述べているか。
64. 筆者の考えに合うのはどれか。
問題13 右のページは、ある市の「食育推進・市民料理講座」の募集案内である。下の問いに対する答えとして最もよいものを、1・2・3・4から一つ選びなさい。
65. 次の4つの団体は、桜野市在住者による団体で、今後、以下の講座の開講を検討している。この中で「市民料理講座」に応募できるのはどの団体か。

団体名・実施内容 実施期間・回数 開講場所 受講対象者・定員
青空クラブ
「和食の基本」
10月〜11月に
計6回
保健センター内の
調理室
桜野市在住者
15〜20人
さくら草の会
「健康スイーツ」
12月に
計3回
保健センター内の
調理室
桜野市在住の女性限定
10〜15人
パパ料理の会
「休日パパごはん」
11月に
計4回
保健センター内の
調理室
桜野市在住の男性(父親)
12〜20人
桜野栄養クラブ
「離乳食づくり」
1月〜2月に
計5回
さくら市民公民館の
調理室
桜野市在住の親子
10〜24人
66. 山田さんはある団体の代表者を務めており、今回初めてこの「市民料理講座」に応募したいと考えている。プロの料理人(外部)を講師として呼ぶ予定だが、その講師について留意しなければならないことは何か。
桜野市保健センター
「食育推進・市民料理講座」募集


A. 「市民料理講座」とは
市内で活動する団体に、料理や栄養に関する講座を企画・運営していただくものです。市保健センターは、広報、受講者の募集、調理室の提供を行います。

B. 応募条件
【申し込める団体】
・桜野市在住者による団体

【実施できる講座】
<内容・場所・講師>
・料理、栄養、食文化に関する内容で、当センター内の調理室で開講できるもの
・団体のメンバーが講師をすることも、外部の講師(専門家など)を招くことも可能
※外部の講師は桜野市在住でない方でも可能

<実施期間・回数>
10月1日〜翌年3月31日の間で、計3〜5回の実施

<定員・受講対象者>
・定員 10〜24人
・受講対象者は桜野市在住者とし、性別や家族構成による限定をしないこと
※「家族ふれあい月間」(11月1日〜11月30日)の講座のみ、「男性(父親)」または「親子」を対象にしてもかまいません。

C. スケジュール
事前説明会:8月10日14時〜16時 保健センター2階会議室
・応募や企画・運営の注意点等をご説明します。初めて応募する団体の代表者は、必ず出席してください。事前申し込みは不要です。

応募書類提出期間:8月15日〜8月31日
・応募書類(「申請書」と「レシピ企画書」)を、当センターの開館時間内(平日 9時〜17時)に窓口に持参してください。記載内容を確認するので、代表者が提出してください。
・「レシピ企画書」は、講師が作成してください。

試食・選考会(面接):9月15日午後
・代表者が必ず出席してください。代表者と講師が異なる場合は、講師も一緒に出席してください。
・結果は9月下旬に郵送します。

【問い合わせ】
桜野市保健センター 健康づくり課
電話 048-000-1122
〒330-9988 桜野市本町 3-7

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